10時頃、クロネコヤマトのトラックが道路の向こう側に止まっているのが見えた。そわそわと落ち着かず、外に出たり部屋の窓から様子を見ていたが、運転手はどこに行ったか姿が見えない。
買い物から帰ってきた妻が、「何をバタバタしてるの?」と聞く。
「実は、あのヤマトのトラックに、ワタクシの荷物が載っているはずなのです。」
「何が届くの?」
「実は、・・・タイプライターを買ったのです。」
「どんな?」
「・・・それは秘密です。」
ようやくインターホンが鳴った。包装を解くと暗紫色の木のケースが出てきた。角は塗装が取れてベニヤの木肌が見えている。革の取手は一方が千切れている。ケースを開けると、昔のミシンのような懐かしい機械油の匂いがした。
ケースの裏蓋に、シールだろうか、いや、直接印刷したような文字がある。
PACIFIC STATIONAERS |
食卓の上に置く。妻が言う。

「かわいいやん。」
「ええ感じやろ? でも中古は嫌なんちゃうの?」
「中古はイヤやけど、アンティークは好きよ」
「あ・・そう。」
「幾らやったん?」
「言えません。」
「5万円くらいした?」
「・・・それは秘密です。」
妻は学生時代に、顧問の先生目当てでタイプライタークラブ・・に入っていたので、タイプライターの使い方に詳しい。まずは動作の確認を兼ねて、彼女にタイプしてもらうことにした。
紙を入れてキーを叩く。リボンが乾いているとのことだったので、印字は薄いが、ペーパーロールもキャリッジもきっちりと動き(あのレバーは紙の位置を左端に戻すだけ(CR)だと、なんとなく思っていたのだが、改行も兼ねている(CR+LF)んだねぇ。)、動作にほぼ問題はなさそう。ん? インクリボンの位置が少しおかしく、ハンマーにうまく合っていないようだ。
リボンを押し上げるスライド部を何回か手で押し上げてリハビリをしてやると、インクリボンがきっちりと動作して、黒々とした文字で印字されるようになった。印字が薄かったのは、インクが乾いているわけでなく、インクリボンがうまくハンマー部と連動せず、ハンマーだけが紙に当たり、ハンマーについていたインクが紙に写っていただけということらしい。
いくつかのキーが、戻らない。1/2や1/4などの普段使わないキーだが、これもリハビリしてやれば元気を取り戻すだろう。
私もタイプしてみる。一年ほど前からスペイン語の勉強を始めていて、全く上達の兆しを見せないのだが、NHKのテキストを取り出し、昨年4月分からの文章を打ってみる。
Hora quetal ・・・ん? 「!」がない。この「c」に斜め線の入ったのか?、いや、これは「セント」かな・・・あれ? 数字の「1」もないぞ。・・・そうか。「l(エル)」で代用するのだ。合理的と言えば合理的な、大雑把と言えば大雑把な考え方だ。
タイプの音が心地よい。一文字一文字が紙に刻まれてゆく感じがいい。指の力がそのままダイレクトに文字の濃さになる。少し気を抜くと左手小指で打つ「a」などは、読めないくらいに薄くなってしまう。シフトキーを押すと「ガコン」とペーパーロール自体が持ち上がる。シフトって、そういうことなのだ。
この感覚はなんだろう。なんだか機械と人間が一緒に作業している、一緒にがんばってるという連帯感みたいなものを感じる。
紙が右端近くになると、「チン」とベルが鳴る。それでもまだ3文字くらいは打てるが、それ以上打とうとすると、キーがロックされる。最初は壊れたかと思ってドキッとしたが、そういう仕様になっているのだ。本当によくできているものだ。これだけの機能が、この70年前の小さな機械に詰まっていることに改めて驚いた。
さらに、この状態でも、左上端(PCの「ESC」の位置)にある「Margin Release」というキーを押すことで、自己責任でタイプを続けることができるということもわかった。なんともはや、「人間的な機械」じゃないか。
ふと、「喋るようにタイプする」という言葉を思い出した。それはたぶん、タイプライターというのは文字を手で書くよりも数段早く文章を作成することができるということを表したのだろうけれど、喋るのとタイプするのがシンクロするイメージは、たとえばタイプライターを打楽器として、歌詞をタイプしながらその歌を歌うというような、ロマンチック?なシーンを想像させる。
そんなことを考えながら、喋るようにとも歌うようにともいかないが、テキストを声に出して読みながらタイプしてみた。すると、不思議な感覚があった。単語を指が覚えていくのが実感できるのだ。これは、・・・いい。綴りを思い出すのに、指がキーの位置に動いた。もしかすると、これは最高の語学学習法かもしれない。
今、このタイプライターは、リビングの食卓の、私が座る定位置の横にある。ほとんど毎晩、スペイン語のテキストを読み上げながら、B5で1〜2枚ほどタイプする。家族には少々うるさがられている。
娘は、「私のために買ってくれたんやろ?」と言うが、それにはなんとも答えられずにいる。もう一台、娘のために、いや私のために買うべきだろうか。
(監)