娘が、パソコンで英文を書いている。
生徒同士がペアになり、お互いに今までの生活の中で印象深かった出来事についてインタビューをし、それを英文でまとめる課題だと言う。
印刷したものを見せてもらって、ふと、今は宿題にコンピューターを使うのだなぁと思った。
私の時代は、すべて手書きだった。原稿用紙何枚以上何枚以内でこれこれについて書け。などという課題をやるとき、鉛筆やボールペンを使わず、太軸の万年筆で「さらさらと書く」ことに、変なプライドのようなものがあったように思う。
手書きで文章を書くというのは、かなり面倒で、しんどいことだった。プロット、下書き、清書と、何回も書いては組み替える。
私は字が下手で、下書きなどは特にキタナイ。下書きだから、他人が読めないのはまぁ、いいとして、自分でも読めないという情けないこともあった。いや、正直、今でも、急いでメモしたようなものは後から読めないことが往々にして、ある。
そんな苦労のあとで、やっと完成したと思って読み返してみると、同じことを何度も書いていたり、下書きから移す時に、ひと段落分抜け落ちてしまっていたり、意味が通らなくなっていて、最初からやり直しということもよくあった。
パソコンの黎明期からその魅力に惹かれ、20年以上もその進化とともに暮らしてきたが、パソコンの何がいいのかと聞かれたら、私は、「文字を書かなくていいこと」だと答える。
パソコンを使って文章を作っていくのは、手書きに比べると、百倍も便利だ。間違った文字は、消しゴムやホワイトを使わなくてもバックスペースで消える。文章や段落の組み換えも一瞬でできる。誤字脱字がないか、語尾表現は統一されているか、などの校正までやってくれるようになった。
こういうのが私の学生時代にあったら、私は間違いなく授業のノートをとるのにノートパソコンやPDAなどで入力していたに違いない。たぶん、そういうことが普通になる時代になってきている、いや、もうそうなっているのかもしれない。
ただ、筆記具として、ワープロやパソコンが普及していくのとともに、読むのがイヤになるような質の悪い小説や、テレビドラマのストーリーやセリフ回しの稚拙さ、新聞や雑誌などでも、もう少しうまく書けないのかという雑然とした記事などが目につくようになってきたような気がするのだ。
便利になるということは、本当に、人間にとっていいことなんだろうか。パソコンで文書を作るようになって、漢字を書けなくなった。頭にはぼやっと浮かぶが、手が憶えていないのだろう。物が憶えられなくなった。人の名前が出てこない。これはトシのせいか?
(続く)