2007年12月10日月曜日

エディ・タウンゼントスタッフ 〜 ド・ケルヴァンの続きのはなし(その4)

(承前)12月も中旬に入っていた。手首の痛みも4ヶ月を過ぎると、痛いのが当たり前のように思えてきていた。

西洋医学だと、きっとまた薬と注射で治そうということになるだろう。腱鞘炎自体は、まだ原因のよくわかっていない病のようで、内科的な原因でないのなら、対症療法中心の西洋医学よりも、体の治癒能力を向上させ、根本的なところから治していこうとする東洋医学のほうが、時間はかかるかもしれないがよいだろうと思った。

とすると、やはり選択は整形外科ではなく、整骨院ということになる。先月通ったのは柔道整復系の整骨院で、全身のマッサージは気持ちがよく、ゲルマ温浴も気に入っていたのだが、治療してくれる人が毎回変わることと、肝心の手首の状態が改善しなかったのが不満だった。今度は鍼にしてみよう。そして、できれば先生は一人だけのところがいいとインターネットを探った。

整骨院というのは近所でもかなりの数がある。普段あまり気に留めていなかったが、過当競争になっているのではないか思うくらいに多い。駅前だけでも、歩いて5分くらいの範囲に7箇所ほどの整骨院がある。それだけ需要が多いということだろうか。

ネットに積極的なところは、ショップを開いて各種サポーターや専門的な機器まで販売しているところもあるが、ほとんどの整骨院は、地域情報ポータルなどに、住所と電話の表記があるだけで、電話帳と変わらない。ホームページを開設しているところもチラホラとはあるが、設備や診療内容、受診料などもよくわからず、ポータルにクチコミ掲示板が用意されていても書き込みなどはなく、とりあえず行って受けてみないとわからない感じだった。

そんな中、ふとエディ・タウンゼントというなつかしい名前が目に入った。鍼灸整骨とエディさんにどういう関係があるんだろうと、そこのホームページをのぞいてみると、エディ・タウンゼントボクシングジムのメディカルスタッフだったという人が、うちから歩いて10分のところで鍼灸院を開いていたのだった。

ボクシングの名トレーナー、チャンピオン製造機と言われたエディさんの名をご存知だろうか。ボクシングは選手がやるもので、セコンドやコーチが話題に上ることはあまりない。でも、エディ・タウンゼントというトレーナーの名は、私のボクシングに関する記憶の中に、強烈な印象で残っている。

ボクシングが好きで、よく見ていた。特に重量級が好きだった。

モハメド・アリ、ジョー・フレージャー、ケン・ノートン、そうそう、ラリー・ホームズなんてのも好きだったなぁ。

どの試合も印象深かったが、日本で秒殺ショーを見せたチャンピオンのフォアマンが、引退がささやかれていたモハメッド・アリと対戦した試合は、どんな言葉でも言い尽くせないほどすごい試合だった。

フォアマンがロープにもたれたアリのボディを、背骨も砕けよと叩く。しかしアリはその殺人的なパンチをかわし、当たっても倒れず、どころか、お前のパンチなど全く効かないという顔をし、叩き疲れ、腕が動かなくなったフォアマンにアリが猛攻、フォアマンを倒してチャンピオンに返り咲いた。「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と言われたアリが、イモムシかさなぎのようにちぢこまり、羽化し、舞い、刺した試合だった。

あぁ、懐かしいなぁ。マービン・ハグラーは、テカテカと光った頭を振ってパンチをくり出す姿が、タイガーマスクに出てきた頭に鉄球を仕込んだレスラーと妙にかぶったものだった。ハグラーと死闘を演じた石のこぶしロベルト・デュラン、そのデュランをたった2回で葬り去ったトーマス・ハーンズも大好きなボクサーだった。

日本のボクシングも、この頃が絶頂期だったように思う。ガッツ石松、赤井英和、ジャッカル丸山など、後ろには引かない、前進あるのみ。どつかれたらどつき返す、倒されたら倒し返す、最後に立っているのは俺だというような試合は、体が震えるほどに好きだった。そして、これらの魅力的な日本人ボクサーのほとんどが、エディ・タウンゼントのコーチを受けていた。セコンドで厳しくそしてやさしい顔をしたエディさんの顔も、数々のすごい試合とともに、記憶に残っている。

ボクシング自体は、辰吉あたりまでは試合を楽しみにして欠かさず見ていたが、今はたまにwowowでフロイド・メイウェザーを見るくらいになってしまった。エディさんが亡くなられて後の日本には、魅力的なボクサーがいなくなってしまった。

エディさんの略歴やエピソードがウィキペディアに載っている。少し引用させていただく。


(前略)六人の世界チャンピオンと赤井英和・カシアス内藤らの名ボクサーを育て上げた実績のみならず、人間性や指導方法も高く評価され「名トレーナー」として日本のボクシング関係者・ボクシングファンから尊敬される様になった。

高齢となったエディが、一から育て上げ最後の弟子と言われた井岡弘樹は、とりわけ愛情を注いだボクサーの一人である。井岡のことを「ボーイ」(Boy)と呼び、ジムの二階で寝食を共にして実の息子のように可愛がった。

1987年10月18日に行われたWBC世界ミニマム級王座決定戦で、井岡を世界チャンピオンへと導いたが、この頃は既にエディの体は「直腸がん」の病魔に蝕まれており車椅子で生活しながら指導するようになる。1988年1月31日の初防衛戦では、どうしても井岡の試合を見守りたいと切望し、入院中の病院からベッドに横わった状態で試合会場入りしたが、試合開始直前に意識不明の危篤状態に陥り田中外科(現・渡辺外科病院)へと引き返した。井岡が挑戦者を12回TKOで退けた知らせを病院で聞くと、右手でVサインをかかげた後に静かに息を引き取った。

その劇的な人生は「EDDIE」の名で演劇化され、各地の学校で上演されている。

そのエディさんのメディカルスタッフが、こんな近所で鍼灸院を開いていたことを知り、妻に、「俺は誰がなんと言おうとも絶対にここへ行くことに決めたのだ」と、少し興奮しながら話した。

妻は、「別に誰も何も言わないから勝手に行ったらいいけど、ここっておじいちゃん(義父。うちの近所に引っ越してきている)が昔、膝が痛いって言ってたときに通ってたとこやね。前はもっと近所にあったのが移転してちょっと遠くなったんで、行かんようになったけど。結構混んでるらしいよ。」と、こともなげに詳しい・・・。

「ま、前はもっと近くにあったの・・ね。あ、そう。インターネットで偶然、ようやく、やっと見つけたのに、おじいちゃんが『昔』に『ずっと』通ってたのね。む〜ん・・。」

なんとインターネットの世界は広く、世間は狭いものか。

(続く)
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