(承前)旅の最後に、私はどうしても鞆の浦を組み入れたかった。呉、戦争、ちえの記憶などをキーワードにした旅だったが、海軍の発祥をたどると、勝海舟の海軍操練所であり、坂本龍馬の海援隊であったろう。
龍馬の海援隊としての仕事初めであった「いろは丸」が、この鞆の浦沖に沈んで120年ぶりに発見され、発掘を開始することを新聞で読んだのは、もう20年ほども前だったか、それ以来、いつか機会があればこの地を訪れてみたいものだと思っていたのだ。尾道からなら目と鼻の先だ。
尾道から鞆の浦まで、尾道水道をゆく船がある。小一時間ほどだが、便が少ないので往復するほどの時間はとれないし、車を置いていくわけにはいかない。うるさい三人を船に乗せ、私は陸路を走った。
秋の尾道、右手にしまなみ、鞆の港の常夜灯を目指して船はゆくのだ。これはかなり心引かれるところだった。船を下りた三人が、夕暮れの尾道水道はものすごくきれいで気持ちがよかったと口々に言うのを聞いてうらやましく思った。しかし、うるさい三人と少しの間でも離れ、一人で車に乗る開放感というのをしみじみと味わったので、今回はよしとしておこう。
鞆の浦と言えば階段状の桟橋と常夜灯。桟橋は200年物、常夜灯も130年くらい前のものだ。この港から海を望む景観は、世界遺産級のものなのではないかと、私は思うのだが、イヤな話を聞いた。海の上にバイパスを通すというものだ。足利尊氏が後醍醐天皇と戦うべく兵を挙げ、頼山陽が「日本外史」を書き上げ、三条実美らが立ち寄り、そして日本発の海難事故となった「いろは丸」事件の舞台ともなったこの町の景観を、ビジネス街ならともかく、静かな漁村となっているようなところを、なぜわざわざ壊してしまうのだろうか。観光集客目的なら本当に逆効果になることだろう。
もう閉館間近だったが、常夜灯の横に建てられている「いろは丸展示館」に入る。慶応三年、坂本竜馬が伊予大洲藩から借り受けたかたちで、海援隊初めての仕事として鉄砲・弾薬を満載して航行していた「いろは丸」は、紀州藩の明光丸と備中・六島沖で衝突、明光丸がいろは丸を曳航して鞆の浦を目指すが、風雨霧強く沈没、竜馬たちは明光丸で鞆の浦に上陸する。
現在、「いろは丸」は有志による発掘が続けられており、展示館には「いろは丸」の積荷やランプなどの備品が展示されている。引き上げられた「いろは丸」の木炭が、小さなカップに入れられて一個100円で販売されている。発掘のための募金代わりという。当然、買った。
鞆の浦は、今はひなびた漁港の風情だが、町屋の造りや石畳などを見ると、昔はかなり裕福で栄えた港町だったことがわかる。街全体の風情もよく、たとえば飛騨高山の古い町並みなどを思い浮かべていただくと想像しやすいが、高山のように観光街化されてもおらず、本当に素朴できれいな町なみだった。
夕闇が迫ってきており、道沿いにある店舗などもちらほらとしか営業していなかったが、「保命酒」という看板に気をひかれ、試飲させてもらった。養命酒のもとになったものだという。味も良く似ている。それを一本とその酒かすを一袋買った。酒かすは大阪の池田あたりでは「こぼれ梅」の名称で売られており、おやつのようにそのまま食べる。酒に弱い人はこれを食べるだけでも酔っ払う。車に戻るとちえが、この買ったばかりの酒かすを見て、「これちょうだい」と言った。一口かと思って「どうぞ」と言うと、袋ごと取り上げられてしまった。
せっかくの港町だからと、海産物の土産を買い、一路大阪を目指す。うるさいのを一人ずつ送り届け、家に帰ると次の日になろうかという時間になっていた。
次の日は何もする気が起きず、一日中寝ていた。それからしばらく、なんだか体の調子がおかしかった。私は昔から共同作業や団体行動ができない性質なのだが、生活のリズムが全く違う人たちと四日間寝食をともにしたことや、長時間の運転が、自分で思っていた以上につらかったようだ。
これでこの旅の話はおしまいなのだが、最後に、ちえ達が住んでいた場所が見つかったのかどうかだけ話しておこう。
実は、事前にいろいろな人の話や地図なども調べて、呉から広島寄りの天応(てんのう)のあたりだろうということは、わかっていた。ただ、六十年という歳月もさることながら、ちえ達が遭遇した戦後すぐの枕崎台風で、建物のほとんどが壊滅し、それらは何十年も前に再区画されて今は跡形もないということや、浜も埋め立てられて「呉ポートピア」という遊園地もでき、海までの距離も当時とは全く違っているので、本当にそこに立ったとしても、当時を思い出すようなものは見つけられないだろうということだった。
結局、宮島から広島を通過して呉へと車を走らせる中で、呉線と平行に走る道路をゆっくりと走り、「このあたりだった」と思えるものが断片だけでも見つけられればよし、なくともよし。ということにしていた。六十年を経て、再びこの地に来たということで満足しておこうということなのだろう。当時の場所へ行ったとしても、わからないくらいに変わっているというし、十歳のちえの記憶がどれほど鮮明なものであっても、歳月が流れすぎている。
高速道路を天応で降りる。そして、広島と呉を結ぶ一般道へ出ようと、呉線の細い踏切りを超えようとしたとき、ちえは言った。「そうそう、こんなふうに線路と道路の下をくぐって海に出る道があった。」私は、踏み切りを超えたところで車を止めた。苔むした石畳の坂道が海まで続いているようだ。「古い道だ」私は言った。「もしかしたら、ほんとにここかもしれないね。」ちえは言ったが、車を降りようとはしなかった。外は雨が降っている。ちえは、しばらく雨にぬれて光っているこの古い道を見つめていた。
「ここだったことにしておこう。」 ちえは言った。私は車をゆっくりとスタートさせた。
(監)
2005年11月30日水曜日
男たちの大和〜ちえの記憶を訪ねて 4/5

(承前)ちえの妹二人が二泊だけして電車で帰るかもしれないと聞いていたので、三日目の宿を手配していなかった。結局帰らないということになったので、兵学校から尾道まで車を走らせてきたのだが、途中渋滞もあり、尾道の駅あたりに到着したのは、午後7時を過ぎていた。駅前に宿の斡旋所があるだろうと思ったのだが、もう閉まっており、駅員に聞いても、「そこのパンフレットを順番に電話するしか・・・」と頼りない。
仕方がないのでいくつかのホテルに電話をかけたが、四人を受け入れてくれるところはなかった。直接何軒かまわって交渉してみても、ないものはないのだった。あきらめて次の町まで走ってみようかと考えたが、駅に来るまでの道沿いに一軒、小さな宿があったのを思い出し、念のためそこへ行ってみようということになった。空いていた。古く汚い部屋だったが(失礼)、まぁ、贅沢は言えない。
駅近くの居酒屋で食事をした。海のものが中心で素朴な料理だが、魚も貝もことごとく、うまい。アサリの酒蒸しは、思わずおかわりを頼み、汁も酒の肴にして残さず飲み干してしまった。次の日に食べた尾道ラーメンもかなりのレベルでおいしく、情緒豊かでノスタルジックなこの町が大好きになった。

セットの見学が終わると、映画で使用された巨大な飯炊き釜や、街の景観を当時のように見せる看板、ポストなどのある展示室、メイキング映像が流されている部屋があり、ここで迫力のある戦闘シーンや、NGなども楽しめた。スタッフや俳優が利用した食堂もそのまま営業されていた。
今年の5月に、この映画がDVD化されるにあたっての販売店用サンプルを、担当が「見たい?」と持ってきてくれたので、一年ごしで初めて全編を見ることができたのだが、セットを叩いたときのベコボコ感が思い出され、壁に物が当たるとボコンと穴が開かないか、ハシゴをそんな乱暴に上がっていって、壁からベリベリとはがれないかと余計な心配をしてしまった。そうだ、そう言えばサンプル見たらレビューを書けと言われてた・・・ちょっと書いてみよう。
この「男たちの大和」という映画を、戦艦大和についてある程度の知識を持っている人が観ると、多くの史実を扱った作品と同様に、ここは違う、あそこはこうだという不満が出てくるかもしれない。しかし、この映画はそういう世代に向けて作られたものではなく、神尾を自分に重ねられる十七、八歳から二十歳前後の人たちへのメッセージ的作品であるように思う。 戦後の教育は、「あの戦争は間違いだった」というもので統一された。「戦争そのものを起こしてはならない」。当然だ。それを否定する気は全くない。しかし、かつて、日本は戦争をしており、その状況の中で、多くの若者が、家族や国を守るために、命を賭して戦ったのだということはまぎれもない事実で、それを否定する権利は誰にもない。国家レベルで間違いだと結論づけても、国民や兵隊達の当時の気持ちは今でも十分理解できる。家族に危害が及ぼされそうになれば、誰だってそれを止めようと立ち上がるだろう。 作品では、神尾達のような二十歳に満たない少年といってもいい若者達が、先輩にしごかれたり教えられたりしながら、大和という世界一大きく美しい戦艦の搭乗員であることを、いかに誇りに思っていたか、特攻の命令を受け、国や家族を守るという使命感に満ちて死を覚悟してゆく気持ちや、特攻、戦争そのものに対する疑問や恐怖も、神尾や仲間達を通して理解できるものになっている。そして、作品全体を通したメッセージは、反戦でも戦争賛美でもなく、誇り高く潔く戦った男たちの生き様だ。 戦後も61年。戦争を体験した世代が高齢層に入っており、いくら世界一の長寿国になったとは言え、あの戦争を実体験として伝えていける世代は年々少なくなってきている。この映画にもそういう記憶を残そうという記録映画のような手法が見受けられなくはないのだが、かつての日本に世界最大の美しい戦艦があり、そこで戦い続けた男達がいたのだということを知っておいて損はない。 |
(続く)
戦艦大和と同期の桜〜ちえの記憶を訪ねて 3/5

(承前)先にもちらと書いたが、ちえが昭和19年から終戦後しばらく呉にいたのは、父親が呉の海軍工廠で働いていたからだった。
この旅の中で、私自身が楽しみにしていたのが、呉のヤマトミュージアムと尾道に作られている、映画「男たちの大和」で使われた戦艦大和の実物大セットを見ることだった。私はヤマトフリークというようなものでもないが、大和という戦艦の模型や写真を見ると、(それは戦艦という名の示すとおり、破壊兵器であり、殺人兵器であったわけなのだが、)なんとも言えず「いいなぁ」と思ったり、その悲劇的な最後ゆえか、胸がチクリと痛んだりもしてしまうのだ。それは、単に戦艦大和が好きだということではなく、祖父が、大和に関わった可能性があるということが、大きな要因になっているのかもしれない。
当時は日本帝国が誇った無敵艦隊も、損耗が激しくなってきており、祖父は昼夜を問わずに軍艦の修理ばかりをしていたという。祖父は、昔のことは話したくないと、当時の話を嫌っていた風があったので、ちえも私も具体的にどんな船をどうやって修理したのかなど、聞いたことはない。しかし、祖父がここにいる期間に、大和や多くの戦艦が損傷を修理し、出航をしていったことは史実だ。そういうわけで、私の中で戦艦大和は、「おじいちゃんが(絶対)修理に携わった世界最大の悲劇の戦艦」という、かなり身近で思い入れの強い存在になっているのだった。
ヤマトミュージアムでは、大和から引き上げられた船体の一部、備品、ゼロ戦や人間魚雷の実物、そして遺品なども並ぶ。全体的に明るい雰囲気に作られているが、厳粛な気持ちになった。当時の呉周辺のジオラマがあり、ちえ達の住んでいたところが、だいたいこのあたりだったのだろう、というのも確認できた。ここでは「男たちの大和」の試写会も行われていた。
このあと、江田島にある旧海軍兵学校(現海上自衛隊幹部候補生学校)に行った。勝海舟が開いた神戸の海軍操練所(文久3年 1863)が東京築地へ(明治9年 1876)、そして明治21年(1888年)にこの江田島に移されてきたという歴史がある。
100年以上経っているとは到底思えない美しいレンガ造りの校舎(写真)や石造りのホールなどを見学した。「同期の桜」という軍歌はご存知だろうか。その歌詞の「兵学校の庭」に立って、撮ったのが上の写真だ。
そして、広大な敷地の中には、兵士達が特攻の前に肉親にあてて書いた手紙や遺品が多数集められている建物がある。死を前にした男達が、家族を気遣いながら書いた潔い文章を見ていると、胸がいっぱいになってしまった。涙をハンカチで拭きながらひとつひとつを丹念に読んでいる年配の方もいた。ちえ達姉妹は、「見ていられない」と早々に退館していた。
戦争の直接の体験はないにせよ、私の世代でも、戦争の傷というか余韻は、思えばたくさんある。父方の祖父はフィリピンで戦死しており(餓死だったらしいが)、私は兵隊姿の二十六・七歳くらいの若者の写真でしか、この祖父を知らない。父も、育ち盛りの時期と戦後の悪い食糧事情が重なり、血管が育たず心臓の疾患が持病となって早世した。母方の祖母は原爆のあと、広島に頻繁に通ったためか、戦後すぐ、原爆症と思われる症状で亡くなっている。この旅は、ちえとその姉妹がそういう思い出をもう一度紡いでゆく鎮魂の旅でもあったわけだ。
(>続)
呉へ〜ちえの記憶を訪ねて 2/5
(承前)その人は、教会の牧師さんだった。ちえは無宗教な人間だが、ゴスペルを習うためにここに数年来通っており、この牧師さんにも本を贈呈していた。
この牧師さんの実家が呉にあり、当時を知るお母様が八十何歳かでご健在だという。本の中に出てくる海軍工廠の寮のあった場所(終戦直後の枕崎台風でほぼ全壊。母の十歳くらいの記憶で、どのあたりかもわからない)近くに現在もお住まいで、もう昔の建物などは全くないが、だいたいの場所もわかるので、もし機会があれば呉に行って話を聞いてみたらどうかというのだ。
その話を聞いた私は、またやさしい心で「じゃあ連れて行ってやるよ」と言ってしまったのだった。
ちょうど会社の勤続の表彰で5日間の休みと旅行券をもらっており、どこかへは出かけるつもりだった。妻は車の旅は嫌いだし、子供も親との旅はしたがらず、それ以前に学校やクラブなどでスケジュールが合わないので、一人で目的なしにどこかへ出かけるつもりでいたのだ。
その頃、ニュースやCMで「男たちの大和」の映画の試写会の様子や実物大のセット公開、「ヤマトミュージアム」なども幾度となく紹介されていて、行き先としては悪くなかった。また、ちえの本が完成した締めくくりとして、ちえや家族たちが体験した空襲や原爆、台風など、ほんの一歩間違えば命を落としていたような数々の体験、祖父が働いた海軍工廠のあった場所をたどる旅というのは悪くない思いつきだ。
ちえとちえの二人の妹、そして私の四人で、広島周辺の観光も兼ねて、11月の上旬に、宮島、呉、尾道を車で回る三泊四日の行程を組んだ。ちえの妹は、次女が昭和19年生まれ、三女は戦後に祖父が再婚してから昭和28年に生まれているので、呉の暮らしや、戦争の記憶は当然ながら全くないのだが、自分達家族の暮らしたところをぜひ知りたいということで、一緒に行くことになった。
この三人との旅は大変だった。大変さをあまり詳しく書いてもしょうがないのだが、まず、「うるさい」。自分たちで盛り上がっている分にはまだいいのだが、彼女らにとって私はいつまでたっても息子であり甥なので、何かというと矛先が命令形でこちらに向いてくる。曰く、「スピード出しすぎ」「野菜も食べなさい」「休肝日を作りなさい」。
2つめに「遅い」。あらかじめ決めておいた出発時間は一度として守られることはなかった。それを見越してできるだけ過密にならないようにゆるやかなスケジュールを組んだつもりだったのだが、その遅さは私の予想をはるかに上回っていた。ひとつひとつの準備や移動に時間がかかる。集合できない。すぐ座る。座ると動かない。結局予定を大幅に削らなければならなかった。
そして、3つめには、「段取りが悪い」。というより段取りというものをする気が全くない。これは、私ももう少し気を回してやればよかったと思ったのだが、彼女には「事前アポ」という考え方は全くないのだった。
今回の旅でお話を聞く予定だった牧師さんのお母様というのが、9月の時点からずっと我々を待っていてくれていたらしく、待ちすぎで体調を崩したとのことで面会できない(いつごろ行くとも連絡してなかった)ことになってしまっていた。そして、もう一人の息子さんが呉の教会にいるとのことで挨拶に行ったのだが、教会は閉まっていて会えなかった。(ちえはせっせとお土産の用意だけはしていたが、これも事前に連絡していなかった)。献本した呉の図書館の地史研究員さんが、昔の地図などを見せてくれるとのことだったので訪ねたら、いなかった。(これも事前連絡していなかった。他の方に対応いただいて、だいたいのところはわかったからいいようなものの・・・)
牧師さんのお母様には申し訳ないことをしたが、ただ、この「ノーアポ」に関しては、なんとなく気持ちがわからないこともないのだ。というのは、ビジネスではアポは常識だが、事前に連絡して、待っていてもらったり、何かを用意させたり、気を使わせたりするのが申し訳ないという気持ちを、仕事以外でそう親しくない人を訪ねるときに私も感じることがある。
自分が訪ねていくことについて、相手には何の準備もしてもらわなくていい。突然に伺って会えればよし、忙しそうなら挨拶だけ、会えずとも自分が訪ねたという事実に自分で納得ができればよい。というふうに、人に気を使わせたり待たせたりを強要しない、日本古来の考え方というか、「奥ゆかしさ」なのかもしれないと感じた。
ただ、その奥ゆかしさは、他人には示すが息子に示されることは一切ない。この、現代ニッポンの常識や、ビジネス社会とかけはなれた次元で暮らす七十歳、六十一歳、五十二歳の三人姉妹の相手は、想像を絶するものだったのだ。
(続く)
この牧師さんの実家が呉にあり、当時を知るお母様が八十何歳かでご健在だという。本の中に出てくる海軍工廠の寮のあった場所(終戦直後の枕崎台風でほぼ全壊。母の十歳くらいの記憶で、どのあたりかもわからない)近くに現在もお住まいで、もう昔の建物などは全くないが、だいたいの場所もわかるので、もし機会があれば呉に行って話を聞いてみたらどうかというのだ。
その話を聞いた私は、またやさしい心で「じゃあ連れて行ってやるよ」と言ってしまったのだった。
ちょうど会社の勤続の表彰で5日間の休みと旅行券をもらっており、どこかへは出かけるつもりだった。妻は車の旅は嫌いだし、子供も親との旅はしたがらず、それ以前に学校やクラブなどでスケジュールが合わないので、一人で目的なしにどこかへ出かけるつもりでいたのだ。
その頃、ニュースやCMで「男たちの大和」の映画の試写会の様子や実物大のセット公開、「ヤマトミュージアム」なども幾度となく紹介されていて、行き先としては悪くなかった。また、ちえの本が完成した締めくくりとして、ちえや家族たちが体験した空襲や原爆、台風など、ほんの一歩間違えば命を落としていたような数々の体験、祖父が働いた海軍工廠のあった場所をたどる旅というのは悪くない思いつきだ。
ちえとちえの二人の妹、そして私の四人で、広島周辺の観光も兼ねて、11月の上旬に、宮島、呉、尾道を車で回る三泊四日の行程を組んだ。ちえの妹は、次女が昭和19年生まれ、三女は戦後に祖父が再婚してから昭和28年に生まれているので、呉の暮らしや、戦争の記憶は当然ながら全くないのだが、自分達家族の暮らしたところをぜひ知りたいということで、一緒に行くことになった。
この三人との旅は大変だった。大変さをあまり詳しく書いてもしょうがないのだが、まず、「うるさい」。自分たちで盛り上がっている分にはまだいいのだが、彼女らにとって私はいつまでたっても息子であり甥なので、何かというと矛先が命令形でこちらに向いてくる。曰く、「スピード出しすぎ」「野菜も食べなさい」「休肝日を作りなさい」。
2つめに「遅い」。あらかじめ決めておいた出発時間は一度として守られることはなかった。それを見越してできるだけ過密にならないようにゆるやかなスケジュールを組んだつもりだったのだが、その遅さは私の予想をはるかに上回っていた。ひとつひとつの準備や移動に時間がかかる。集合できない。すぐ座る。座ると動かない。結局予定を大幅に削らなければならなかった。
そして、3つめには、「段取りが悪い」。というより段取りというものをする気が全くない。これは、私ももう少し気を回してやればよかったと思ったのだが、彼女には「事前アポ」という考え方は全くないのだった。
今回の旅でお話を聞く予定だった牧師さんのお母様というのが、9月の時点からずっと我々を待っていてくれていたらしく、待ちすぎで体調を崩したとのことで面会できない(いつごろ行くとも連絡してなかった)ことになってしまっていた。そして、もう一人の息子さんが呉の教会にいるとのことで挨拶に行ったのだが、教会は閉まっていて会えなかった。(ちえはせっせとお土産の用意だけはしていたが、これも事前に連絡していなかった)。献本した呉の図書館の地史研究員さんが、昔の地図などを見せてくれるとのことだったので訪ねたら、いなかった。(これも事前連絡していなかった。他の方に対応いただいて、だいたいのところはわかったからいいようなものの・・・)
牧師さんのお母様には申し訳ないことをしたが、ただ、この「ノーアポ」に関しては、なんとなく気持ちがわからないこともないのだ。というのは、ビジネスではアポは常識だが、事前に連絡して、待っていてもらったり、何かを用意させたり、気を使わせたりするのが申し訳ないという気持ちを、仕事以外でそう親しくない人を訪ねるときに私も感じることがある。
自分が訪ねていくことについて、相手には何の準備もしてもらわなくていい。突然に伺って会えればよし、忙しそうなら挨拶だけ、会えずとも自分が訪ねたという事実に自分で納得ができればよい。というふうに、人に気を使わせたり待たせたりを強要しない、日本古来の考え方というか、「奥ゆかしさ」なのかもしれないと感じた。
ただ、その奥ゆかしさは、他人には示すが息子に示されることは一切ない。この、現代ニッポンの常識や、ビジネス社会とかけはなれた次元で暮らす七十歳、六十一歳、五十二歳の三人姉妹の相手は、想像を絶するものだったのだ。
(続く)
本を作る〜ちえの記憶を訪ねて 1/5

出版会社からは、非常に興味深いだとか貴重な資料だというような講評が入っていたが、聞き取りやリライトなどを含んだ見積書は、本が売れても売れなくても百万円以上が自己負担になるようなかたちになっており、販売が目的でない本の制作費としては、かなり無茶な見積に思えた。
もとの原稿は30枚くらいだったろうか、何かを思い出した都度メモをしたというもので、繋がった物語でなく、ひとつの事項に対して、記憶の中で結びついたことを書き並べていくような書き方、たとえば、父親と和歌山へ遊びに行った戦前の話のあとに、同じ和歌山で着物を野菜に換えたという話が書かれている。その頃に食糧難が?と聞くと、それは戦後の話だという。
こういう話を整理して取材、書き増ししながら2〜300枚くらいにするのであればその作業だけで百万円くらいは必要なのかもしれないと思ったが、どうも私の人間性がひねくれているというのか、講評もその自費出版のシステムも見積も、すべてが気に入らず、ついつい「俺がやったろか」と言ってしまったのだった。
本を読むのも文章を書くのも好きなほうだが、編集についてはわかっていない。全くの我流だが、この迷路のような文章を、年代別に分離して整理しなおさないことにははじまらない。まずは、年表を作成した。年月、年齢、学年などを合わせ、原稿の概略、世間で起こった事件や大規模な空襲などの日付も書き込んでいく。当時の地図なども入手した。この作業の中で記憶と実際の年齢のズレや日付の特定もできた。
それから編集にとりかかった。「私・父・母」などを名前に置き換えた。母の名は「千枝子」というが、名前に変えてゆくことを話すと、変えるなら皆から呼ばれていた「ちえ」にしてほしいと言った。(この文章でも以下、ちえと書く。)それから、"ですます"調を、"である"調に変更したり、語尾のあいまいなところなどを調整していった。この2つの作業については、私はほぼ独断で行ったが、本当によかったのかどうかはよくわからない。
「私」を「ちえ」に。「父」を「峰吉」という名に置き換えたことや「と思いました」を「と思った」と書き直すことに躊躇する瞬間があり、もしかしたら本人の思いと違うことをしているのではないか、無理に変えず、そのままの表現でよかったのではないかという思いが、今もある。
タイトルは「黒いひまわり」にしたいと、ちえは言った。「黒い」が戦争の暗い時代を表し、「ひまわり」というのが自分が体験し、自分の母親を失うもととなった原爆の「夏」をあらわすのだということだったが、本の内容に「ひまわり」に関する出来事や、「ひまわり」という言葉すらも一切ないのだった。
表題と内容を無理に合わせることもなかったのかもしれないが、もう一度原稿を読み直して、どこかにひまわりという言葉だけでも出せないかと考えた。そして、原爆の被害に遭われた方々が呉の病院に向けてトラックの荷台に満載され、「爆風と熱でパーマネントをかけたようになっている頭(カーリーヘアを想像されたい)」が「ゆらゆらと揺れている」のをずっと見ていたというくだりに、「トラックの上で黒いひまわりがゆれているように見えた」という表現をつけ加えることにした。
当時十歳の女の子の発想としては、そう不自然でない感想のようにも思えた。ちえは、「うまいこと考えたなぁ」と言い、以後、人から、どうしてこういうタイトルをつけたのかという質問に、「トラックで運ばれる被爆者の人たちが・・・」と答えるようになった。
題字はちえの友人で、従軍看護婦として戦地にも行っていた方が書いてくれた。その娘さんは画家なのだが、その娘さんが習っている先生も一緒に、表紙や、メインとなる黒いひまわりの絵、文中の挿入画まで、気さくに引き受けていただいた。
本は夏に完成した。ちえの誕生日が7月27日なので、発行日はその日付にしたが、実際は8月に入ってからの完成だった。原稿の体裁が整ってきた頃から、ひとつひとつのことがらについて、周りの様子や感情など、もう少し詳しく思い出せと言ったのだが、当然ながら戦争が激しくなってからや戦後の混乱期の写真などはなく、子供の頃の、しかも60年以上前の記憶の中の話だ。当時の細かい情景などを書き加えることも難しく、結局、写真や文章をあわせても80ページ程度が精一杯だった。
せめて150ページくらいあれば、もう少し見栄えのするものになったのだろうが、しょうがない。このあたりも、専門の会社に任していれば、という後悔のような気持ちが、多少、ある。
製本は、PDFから小部数でも印刷・製本をしてくれる印刷会社を見つけた。版サイズをどうするか聞かれ、四六版にしてほしいと言った。B6版よりも幅が1mm短く、縦が6mm長い。たいした違いはないように思うが、四六版のほうが本としての形状が美しい。格が上だと思うのは私だけだろうか。
50冊を上製、50冊を並製にしてもらって、計100冊を作った。親戚やちえの友人、知人、それと呉や広島の図書館に何冊かを寄贈した。そして、本を読んだ人から、ある話がもたらされたのは9月の半ばだったろうか。
(続く)
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