
出版会社からは、非常に興味深いだとか貴重な資料だというような講評が入っていたが、聞き取りやリライトなどを含んだ見積書は、本が売れても売れなくても百万円以上が自己負担になるようなかたちになっており、販売が目的でない本の制作費としては、かなり無茶な見積に思えた。
もとの原稿は30枚くらいだったろうか、何かを思い出した都度メモをしたというもので、繋がった物語でなく、ひとつの事項に対して、記憶の中で結びついたことを書き並べていくような書き方、たとえば、父親と和歌山へ遊びに行った戦前の話のあとに、同じ和歌山で着物を野菜に換えたという話が書かれている。その頃に食糧難が?と聞くと、それは戦後の話だという。
こういう話を整理して取材、書き増ししながら2〜300枚くらいにするのであればその作業だけで百万円くらいは必要なのかもしれないと思ったが、どうも私の人間性がひねくれているというのか、講評もその自費出版のシステムも見積も、すべてが気に入らず、ついつい「俺がやったろか」と言ってしまったのだった。
本を読むのも文章を書くのも好きなほうだが、編集についてはわかっていない。全くの我流だが、この迷路のような文章を、年代別に分離して整理しなおさないことにははじまらない。まずは、年表を作成した。年月、年齢、学年などを合わせ、原稿の概略、世間で起こった事件や大規模な空襲などの日付も書き込んでいく。当時の地図なども入手した。この作業の中で記憶と実際の年齢のズレや日付の特定もできた。
それから編集にとりかかった。「私・父・母」などを名前に置き換えた。母の名は「千枝子」というが、名前に変えてゆくことを話すと、変えるなら皆から呼ばれていた「ちえ」にしてほしいと言った。(この文章でも以下、ちえと書く。)それから、"ですます"調を、"である"調に変更したり、語尾のあいまいなところなどを調整していった。この2つの作業については、私はほぼ独断で行ったが、本当によかったのかどうかはよくわからない。
「私」を「ちえ」に。「父」を「峰吉」という名に置き換えたことや「と思いました」を「と思った」と書き直すことに躊躇する瞬間があり、もしかしたら本人の思いと違うことをしているのではないか、無理に変えず、そのままの表現でよかったのではないかという思いが、今もある。
タイトルは「黒いひまわり」にしたいと、ちえは言った。「黒い」が戦争の暗い時代を表し、「ひまわり」というのが自分が体験し、自分の母親を失うもととなった原爆の「夏」をあらわすのだということだったが、本の内容に「ひまわり」に関する出来事や、「ひまわり」という言葉すらも一切ないのだった。
表題と内容を無理に合わせることもなかったのかもしれないが、もう一度原稿を読み直して、どこかにひまわりという言葉だけでも出せないかと考えた。そして、原爆の被害に遭われた方々が呉の病院に向けてトラックの荷台に満載され、「爆風と熱でパーマネントをかけたようになっている頭(カーリーヘアを想像されたい)」が「ゆらゆらと揺れている」のをずっと見ていたというくだりに、「トラックの上で黒いひまわりがゆれているように見えた」という表現をつけ加えることにした。
当時十歳の女の子の発想としては、そう不自然でない感想のようにも思えた。ちえは、「うまいこと考えたなぁ」と言い、以後、人から、どうしてこういうタイトルをつけたのかという質問に、「トラックで運ばれる被爆者の人たちが・・・」と答えるようになった。
題字はちえの友人で、従軍看護婦として戦地にも行っていた方が書いてくれた。その娘さんは画家なのだが、その娘さんが習っている先生も一緒に、表紙や、メインとなる黒いひまわりの絵、文中の挿入画まで、気さくに引き受けていただいた。
本は夏に完成した。ちえの誕生日が7月27日なので、発行日はその日付にしたが、実際は8月に入ってからの完成だった。原稿の体裁が整ってきた頃から、ひとつひとつのことがらについて、周りの様子や感情など、もう少し詳しく思い出せと言ったのだが、当然ながら戦争が激しくなってからや戦後の混乱期の写真などはなく、子供の頃の、しかも60年以上前の記憶の中の話だ。当時の細かい情景などを書き加えることも難しく、結局、写真や文章をあわせても80ページ程度が精一杯だった。
せめて150ページくらいあれば、もう少し見栄えのするものになったのだろうが、しょうがない。このあたりも、専門の会社に任していれば、という後悔のような気持ちが、多少、ある。
製本は、PDFから小部数でも印刷・製本をしてくれる印刷会社を見つけた。版サイズをどうするか聞かれ、四六版にしてほしいと言った。B6版よりも幅が1mm短く、縦が6mm長い。たいした違いはないように思うが、四六版のほうが本としての形状が美しい。格が上だと思うのは私だけだろうか。
50冊を上製、50冊を並製にしてもらって、計100冊を作った。親戚やちえの友人、知人、それと呉や広島の図書館に何冊かを寄贈した。そして、本を読んだ人から、ある話がもたらされたのは9月の半ばだったろうか。
(続く)