
(承前)先にもちらと書いたが、ちえが昭和19年から終戦後しばらく呉にいたのは、父親が呉の海軍工廠で働いていたからだった。
この旅の中で、私自身が楽しみにしていたのが、呉のヤマトミュージアムと尾道に作られている、映画「男たちの大和」で使われた戦艦大和の実物大セットを見ることだった。私はヤマトフリークというようなものでもないが、大和という戦艦の模型や写真を見ると、(それは戦艦という名の示すとおり、破壊兵器であり、殺人兵器であったわけなのだが、)なんとも言えず「いいなぁ」と思ったり、その悲劇的な最後ゆえか、胸がチクリと痛んだりもしてしまうのだ。それは、単に戦艦大和が好きだということではなく、祖父が、大和に関わった可能性があるということが、大きな要因になっているのかもしれない。
当時は日本帝国が誇った無敵艦隊も、損耗が激しくなってきており、祖父は昼夜を問わずに軍艦の修理ばかりをしていたという。祖父は、昔のことは話したくないと、当時の話を嫌っていた風があったので、ちえも私も具体的にどんな船をどうやって修理したのかなど、聞いたことはない。しかし、祖父がここにいる期間に、大和や多くの戦艦が損傷を修理し、出航をしていったことは史実だ。そういうわけで、私の中で戦艦大和は、「おじいちゃんが(絶対)修理に携わった世界最大の悲劇の戦艦」という、かなり身近で思い入れの強い存在になっているのだった。
ヤマトミュージアムでは、大和から引き上げられた船体の一部、備品、ゼロ戦や人間魚雷の実物、そして遺品なども並ぶ。全体的に明るい雰囲気に作られているが、厳粛な気持ちになった。当時の呉周辺のジオラマがあり、ちえ達の住んでいたところが、だいたいこのあたりだったのだろう、というのも確認できた。ここでは「男たちの大和」の試写会も行われていた。
このあと、江田島にある旧海軍兵学校(現海上自衛隊幹部候補生学校)に行った。勝海舟が開いた神戸の海軍操練所(文久3年 1863)が東京築地へ(明治9年 1876)、そして明治21年(1888年)にこの江田島に移されてきたという歴史がある。
100年以上経っているとは到底思えない美しいレンガ造りの校舎(写真)や石造りのホールなどを見学した。「同期の桜」という軍歌はご存知だろうか。その歌詞の「兵学校の庭」に立って、撮ったのが上の写真だ。
そして、広大な敷地の中には、兵士達が特攻の前に肉親にあてて書いた手紙や遺品が多数集められている建物がある。死を前にした男達が、家族を気遣いながら書いた潔い文章を見ていると、胸がいっぱいになってしまった。涙をハンカチで拭きながらひとつひとつを丹念に読んでいる年配の方もいた。ちえ達姉妹は、「見ていられない」と早々に退館していた。
戦争の直接の体験はないにせよ、私の世代でも、戦争の傷というか余韻は、思えばたくさんある。父方の祖父はフィリピンで戦死しており(餓死だったらしいが)、私は兵隊姿の二十六・七歳くらいの若者の写真でしか、この祖父を知らない。父も、育ち盛りの時期と戦後の悪い食糧事情が重なり、血管が育たず心臓の疾患が持病となって早世した。母方の祖母は原爆のあと、広島に頻繁に通ったためか、戦後すぐ、原爆症と思われる症状で亡くなっている。この旅は、ちえとその姉妹がそういう思い出をもう一度紡いでゆく鎮魂の旅でもあったわけだ。
(>続)