2005年11月30日水曜日

いろは丸の木炭〜ちえの記憶を訪ねて 5/5

(承前)旅の最後に、私はどうしても鞆の浦を組み入れたかった。呉、戦争、ちえの記憶などをキーワードにした旅だったが、海軍の発祥をたどると、勝海舟の海軍操練所であり、坂本龍馬の海援隊であったろう。

龍馬の海援隊としての仕事初めであった「いろは丸」が、この鞆の浦沖に沈んで120年ぶりに発見され、発掘を開始することを新聞で読んだのは、もう20年ほども前だったか、それ以来、いつか機会があればこの地を訪れてみたいものだと思っていたのだ。尾道からなら目と鼻の先だ。

尾道から鞆の浦まで、尾道水道をゆく船がある。小一時間ほどだが、便が少ないので往復するほどの時間はとれないし、車を置いていくわけにはいかない。うるさい三人を船に乗せ、私は陸路を走った。

秋の尾道、右手にしまなみ、鞆の港の常夜灯を目指して船はゆくのだ。これはかなり心引かれるところだった。船を下りた三人が、夕暮れの尾道水道はものすごくきれいで気持ちがよかったと口々に言うのを聞いてうらやましく思った。しかし、うるさい三人と少しの間でも離れ、一人で車に乗る開放感というのをしみじみと味わったので、今回はよしとしておこう。

鞆の浦と言えば階段状の桟橋と常夜灯。桟橋は200年物、常夜灯も130年くらい前のものだ。この港から海を望む景観は、世界遺産級のものなのではないかと、私は思うのだが、イヤな話を聞いた。海の上にバイパスを通すというものだ。足利尊氏が後醍醐天皇と戦うべく兵を挙げ、頼山陽が「日本外史」を書き上げ、三条実美らが立ち寄り、そして日本発の海難事故となった「いろは丸」事件の舞台ともなったこの町の景観を、ビジネス街ならともかく、静かな漁村となっているようなところを、なぜわざわざ壊してしまうのだろうか。観光集客目的なら本当に逆効果になることだろう。

もう閉館間近だったが、常夜灯の横に建てられている「いろは丸展示館」に入る。慶応三年、坂本竜馬が伊予大洲藩から借り受けたかたちで、海援隊初めての仕事として鉄砲・弾薬を満載して航行していた「いろは丸」は、紀州藩の明光丸と備中・六島沖で衝突、明光丸がいろは丸を曳航して鞆の浦を目指すが、風雨霧強く沈没、竜馬たちは明光丸で鞆の浦に上陸する。

現在、「いろは丸」は有志による発掘が続けられており、展示館には「いろは丸」の積荷やランプなどの備品が展示されている。引き上げられた「いろは丸」の木炭が、小さなカップに入れられて一個100円で販売されている。発掘のための募金代わりという。当然、買った。

鞆の浦は、今はひなびた漁港の風情だが、町屋の造りや石畳などを見ると、昔はかなり裕福で栄えた港町だったことがわかる。街全体の風情もよく、たとえば飛騨高山の古い町並みなどを思い浮かべていただくと想像しやすいが、高山のように観光街化されてもおらず、本当に素朴できれいな町なみだった。

夕闇が迫ってきており、道沿いにある店舗などもちらほらとしか営業していなかったが、「保命酒」という看板に気をひかれ、試飲させてもらった。養命酒のもとになったものだという。味も良く似ている。それを一本とその酒かすを一袋買った。酒かすは大阪の池田あたりでは「こぼれ梅」の名称で売られており、おやつのようにそのまま食べる。酒に弱い人はこれを食べるだけでも酔っ払う。車に戻るとちえが、この買ったばかりの酒かすを見て、「これちょうだい」と言った。一口かと思って「どうぞ」と言うと、袋ごと取り上げられてしまった。

せっかくの港町だからと、海産物の土産を買い、一路大阪を目指す。うるさいのを一人ずつ送り届け、家に帰ると次の日になろうかという時間になっていた。

次の日は何もする気が起きず、一日中寝ていた。それからしばらく、なんだか体の調子がおかしかった。私は昔から共同作業や団体行動ができない性質なのだが、生活のリズムが全く違う人たちと四日間寝食をともにしたことや、長時間の運転が、自分で思っていた以上につらかったようだ。


これでこの旅の話はおしまいなのだが、最後に、ちえ達が住んでいた場所が見つかったのかどうかだけ話しておこう。

実は、事前にいろいろな人の話や地図なども調べて、呉から広島寄りの天応(てんのう)のあたりだろうということは、わかっていた。ただ、六十年という歳月もさることながら、ちえ達が遭遇した戦後すぐの枕崎台風で、建物のほとんどが壊滅し、それらは何十年も前に再区画されて今は跡形もないということや、浜も埋め立てられて「呉ポートピア」という遊園地もでき、海までの距離も当時とは全く違っているので、本当にそこに立ったとしても、当時を思い出すようなものは見つけられないだろうということだった。

結局、宮島から広島を通過して呉へと車を走らせる中で、呉線と平行に走る道路をゆっくりと走り、「このあたりだった」と思えるものが断片だけでも見つけられればよし、なくともよし。ということにしていた。六十年を経て、再びこの地に来たということで満足しておこうということなのだろう。当時の場所へ行ったとしても、わからないくらいに変わっているというし、十歳のちえの記憶がどれほど鮮明なものであっても、歳月が流れすぎている。

高速道路を天応で降りる。そして、広島と呉を結ぶ一般道へ出ようと、呉線の細い踏切りを超えようとしたとき、ちえは言った。「そうそう、こんなふうに線路と道路の下をくぐって海に出る道があった。」私は、踏み切りを超えたところで車を止めた。苔むした石畳の坂道が海まで続いているようだ。「古い道だ」私は言った。「もしかしたら、ほんとにここかもしれないね。」ちえは言ったが、車を降りようとはしなかった。外は雨が降っている。ちえは、しばらく雨にぬれて光っているこの古い道を見つめていた。

「ここだったことにしておこう。」 ちえは言った。私は車をゆっくりとスタートさせた。

(監)
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